雑記15号(2023年春)

目次

  • 阿弥陀如来の他力本願と個人主義
  • 古本屋
  • 『Dr.コトー診療所』(2022)
  • サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』
  • 『シン・仮面ライダー』(2023)
  • 『リトル・マーメイド』(2023)
  • 『君たちはどう生きるか』(2023)
  • 『ゴジラ -1』(2023)

阿弥陀如来の他力本願と個人主義

西田幾多郎の『我が子の死』は名文で、ときどき読み返す、そうしてふと、最後の引用に『歎異抄』の一節が引かれているのを見て、不意に思いついた。弥陀仏の他力というのは果たして個人主義の反省ではないかということだ。私が常日頃考えていた個人主義に対する簡潔な解答を何百年も前に親鸞が既にそこに至っていたのである。

古本屋

潰れた塾から貰い受けた赤本をとうとう処分しようと思い、買取に出そうか悩んでいたら、そういえば高田馬場あたりに赤本しか置いていない古本屋があるということを思い出して、鞄に大量の赤本を詰め込み、それでも入りきらなかったので手提げにも入れ込んで向かうことにした。駅から少し通りを沿って步いたところにそれはあった。店主らしき老人が女性と店先で立ち話をしていたから、店内に入ってそれが終わるのを待つことにした。女性はしきりに、店主に向かって折角岩倉高校に入れたのにだとか愚痴を言っていた。店内は所狭しと赤本が沢山揃っていた。暫くすると店主が戻ってきたから、赤本を買い取ってほしいんですと言って全部の赤本を私は並べた。全部で二十九冊、店主はそれを確認して二つの山に選り分けた。片方が値段のつかない廃棄の本、今ひとつが買い取って七千円になると言った。店主はよく大学の同窓会などでみんな面白がって買っていくんだと言った。おそらく古いものに高い値段がついたのだろう。そして、お宅は学校の先生ですかと聞かれたので、潰れた塾から預かっていたものですと答えた。

『Dr.コトー診療所』(2022)

好評なテレビドラマ版は私は一切見ていない。

演出過多

まあ邦画なので分かっていたが、演出過多で胃もたれがする。もう律儀に話の雲行きと現実の天気や色味を合わせる大仰な演出は辞めてほしい。それまでずっと眩しい沖縄の風景をひたすら映していたのに、中盤から話がだんだん暗くなっていくと、急に空が曇って色も青白くなってしまい、分かりやすすぎて苦笑した。台風も来ましたしね。そこから始まる自然災害の場面も結局コトー先生の不幸のネタのために使われただけだった。概して、背景描写が脚本に付き従うだけで、だから利用されているだとか、そういうふうに写ってしまう。沖縄の景色が綺麗なのは理解できるし、もちろん知っている。けど本当にそれだけで、美しい孤島で自己犠牲精神溢れる優しい医者が居たらいいよね、というのを見せられても……、と思った。『ソナチネ』の沖縄は本当にすごい。ずっと美しいままだ。だから映画を通して舞台として沖縄が生き続けている。けれど、この映画の沖縄は陳腐で、テレビCMくらいの映り方しかしていない。沖縄いいよね、綺麗だよね、という安直な旅情しか出てこない。

あと嫌だったのが、静かなシーンから効果音(雨音や蛇口の音)が過大なシーンに唐突に場面が切り変わるやり方をもう辞めてほしい。1回だけだったら許せる。けど台風が島に到来してからこれを何回やりましたか?私は指折り数えていたがおそらく5回以上はやってた。このトランジョン演出を多用するというのは、まず、音がうるさい。静かなシーンから急にうるさい音が出てくると本当にビクっとする。これが何回も出てくるとなると最早ノイズのように感ぜられる。今一つは、安直である。演出が過剰。1回きりなら何も問題はないのに、なぜか多用する。台風が来てからは室内と室外の場面切り替えの度にやってませんでしたか。勘弁してください。

それと無音の時間も長かった。私は朝食を抜きで観に行ったから、そのタイミングでお腹がグーとなってしまい、恥ずかしくて仕方がなかった。無音の時間というのは鑑賞者を無理矢理現実世界に引き戻すような激しい演出だ。こちらが物音一つ、ポップコーン一粒噛むのにも気を遣ってしまう。

最後の演出もくどくていやらしかった。最後の演出というのは、台風が去り誰も死なず、島のみんなに平穏な日常が返ってきて、研修医の先生も島になじんで、それで先生の子供もやっと生まれて……、そしてそして、肝心の先生は、——先生は一体どうなってしまったのでしょうか——!?!? という具合に、引き伸ばしすぎなあのシーンである。あのラストシーンを、夢だか幻だかと解釈する人が多いらしい。まあ確かに分からなくもないが。

最後のシーン

最後のシーンは幻や夢だったのだろうか。私は鑑賞中は観た通り現実の後日談だと思って観ていた。しかし確かに我が子を抱き上げる先生の顔は無表情に見えたし、ハレーションして白くぼやけた画面は極楽浄土のような都合のいい理想郷の幻を示しているのかもしれない。しかしそれだったら滅茶苦茶に悲しい話である。思うにこれには、「鑑賞者のご想像にお任せします」などという自己陶酔も甚だしい悪意的演出意図があるのではないか。そうじゃなかったら説明がつきようがない。

他の人の話を見ているとこの映画のもともとのドラマシリーズは、ほんわかとした心が温まるハートフルな話が主題らしい。つまり悲劇の後のカタルシスが主眼に置かれるべきで、観客が一番観たいのは、悲劇にも挫けず愛すべき日常を取り戻すという、そういうものじゃないでしょうか。たとえその悲劇が、劇場版仕様の全部盛り合わせの負荷テストみたいな悲劇でも。なのに、それがない。殆ど存在していない。助産師のおばあさんの手術が成功したとみんなに伝えるシーンも、先生の顔は映らずその背中越しに市民たちの歓声が挙がるだけである。産気づいた妻のところに向かい、周囲の歓声の中で静かに力尽きる。そして次のシーンは例の夢か幻か分からないシーンである。

先生を殺すしかなくなった狭隘な脚本

思うに、先生はあそこで死なせるしかなかったと思う、なぜなら、最初から最後まで悲劇の解決方法が先生が自分を犠牲にして頑張る、というこれしかなかったからである。村の期待を背負った医大生は中折れ、研修医も酷い現実主義者という設定のせいですぐ諦めて使い物にならない、看護師の妻も産気づいている。——そうなったら、島の医療は一体誰が担うんですか? 先生が頑張るしかないのである。しかし、頑張ったから問題解決できました、というのは、それは問題を無存在にしてしまう。解決に伴う代償がなければ問題が解決される理由も問題が存在する理屈も分からなくなってしまう。それではあそこで何が代償となるのか、となるともう先生の命しかないのである。倒れた先生に島民みんなが頑張れ、頑張れ、と声を掛ける。それはまるでみんなの為に生贄になってくれ、とせがんでいるようにさえ見える。しかし、物語の主人公を十数年ぶりの新作で明確に殺すなどという勇気が制作に無かったのではないか。物語の進行としてやむを得ない先生の犠牲に、それを有耶無耶にするための夢幻のような最後に取ってつけたシーンは、カッコよく言えば「鑑賞者のご想像にお任せします」だが、これらがファンに受け入れられるものになると少しでも考えただろうか。

長いですが以下引用。

映画『Dr.コトー診療所』吉岡秀隆&筧利夫&中江功監督インタビュー

──今まで吉岡さんの中で「Dr.コトー診療所」の続編に気持ちが向かうことはあったのでしょうか?

吉岡:ないです、ないです。

──2006年のドラマで終わったという感覚だったのでしょうか?

吉岡:終わったと言うよりも、やりつくしたし、これ以上はもうできませんという思いと、コトー先生がこの島にいて、島民の家族にもなれたし、医者は家族をオペできないという一番の難問もクリアできたので、後は島民の健康をコトー先生が守っていくのだろうな、と。だから、その後のドラマは生まれないでほしいと思っていました。

──では、3、4年前に監督から続編の話を聞いた時もすぐにやろうとはならなかったのでしょうか?

吉岡:10年以上も経っているのに、なんで今更? と思いました。コトー先生が島民の家族になって、めでたしめでたしで終わったのだから、そっとしておいてあげたらいいのに、と。映画かドラマを作ることになったら、また誰かが病気になるしかないので。

──それでも、やはり続編を作ろうという気持ちになったのはどうしてだったのでしょうか?

吉岡:コロナになって、監督と命の話や、今コトーをやる意味などについて随分話をしました。何よりも、普通は台本を渡されて出演するかどうか考えますが、今回は台本もなく、コトーに与えられたテーマが一切決まっていないので、すぐに「やります、やります」とはならなかったです。特に、コトーは撮影が過酷で、地図もないのに山に登れと言われても遭難するしかないので。今回は、五島健助に何を背負わせるのか随分話した上で、やっとそういう気持ちになっていきました。

──具体的にはどのような話をされたのでしょうか?

監督:続編を作る上で離島医療の現実を描くことは避けて通れないだろうな、と。コトー先生が赴任して20年経って、先生がいることが島民にとって当たり前になっているというのは危険なことなので。その話は入れた方がいいと。先生に何かあったらということを誰も考えずに、というよりは、現実のこととして考えないようにしていたことが浮き彫りになって、コトーに何を背負わせるのか、それによって周りの人がどういう影響を受けるのかというのは吉岡さんと随分話をしました。

(中略)

──吉岡さんは、『男はつらいよ お帰り 寅さん』でも23年ぶりに満男を演じてらっしゃいましたが、今回、コトー先生を演じるのは16年ぶりです。以前演じた人物を時間が経って再び演じるというのは、また違った難しさがあるのではないでしょうか?

吉岡:今回のコトーもそうですが、僕は、作品は監督のものだと思っています。『お帰り 寅さん』は、山田洋次監督が寅さんやさくら、博やおいちゃん、おばちゃんたちに会いたいのだろうなと思いましたし、あの世界にもう1度戻りたいという思いが強くなったのだろうなと思いました。

(中略)

吉岡:コトーに関しても、同じように中江監督がまた志木那島に行きたいのだろうな、また皆に会いたいのだろうな、というのはすごく感じていました

映画というのはファンのためにあるのではなく、監督が伝えたいメッセージのためにある。もちろんその通りだとは思うが、16年ぶりの新作だなんて、もうファンからしたら同窓会みたいなものを期待して観に行くに決まってるじゃないですか。それで何か監督からメッセージがあるならもちろん受け取りますし、そんでもってあのコトー先生がまた見れた、と満足して同窓会気分になって帰れたらもうそれで十分なんじゃないでしょうか。というかそれが普通なんじゃないんですか。——まあ私はテレビドラマシリーズも原作も見てないから分からないですけど。

けれど私は観ないですけどね、同窓会作品。『マトリックス レザレクションズ』も上記の『お帰り 寅さん』も観てない。

サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』

この鼻につくような文体、なんだか嫌な雰囲気だなあと思ったらやっぱり、村上春樹が好きな小説らしい。村上春樹は嫌いだ。別にものすごく嫌いという訳でもないが、別に何がいいのかわからない。同じようなことを母も言っていた。中学生の頃、デートの最中に近所の本屋に行くと当時実写映画化されていたあの『ノルウェイの森』の文庫本がコーナーを作って置いてあったから、私は彼女にこれを読んだことがあるかと聞いた。彼女はすごく微妙だと言った。その場の空気も微妙になった。私は中三で受験生だったが死ぬほど暇だったので後日その文庫本を買って読んだ。こんな下品な文章はないと思った。どんなエロゲのノベライズや官能小説や助平なラノベよりも、群を抜いてこれが一番下品だと思った。だって、ラノベやエロゲのノベライズは元々下品なカストリ雑誌みたいなものだから。けれども村上春樹は、散々露悪的助平を持ち出してこれは純文学ですと気取っている。教科書に掲載されていた『レキシントンの幽霊』の著者紹介のすました顔つきが今でも目に浮かぶ。しかも彼の作品はゴマンと売れて、次のノーベル文学賞になるかもしれないと毎年騒がれているんだからもう気に入らない。私は天邪鬼だからみんながディアルガと言ったらパルキアだし、ズゴックよりもゴックやアッガイが好きなのだ。しかも文章に敢えてするのは「パルキアが好き」ではなく「ディアルガが嫌い」だから本当にしょうもない。私は死ぬまで村上春樹に反対し続けなければならなくなってしまった。

しかし、『ライ麦畑でつかまえて』は村上春樹よりは良かった。彼がやりたいことはこれだったのだな、というのは十分理解できた。

『シン・仮面ライダー』(2023)

暗い。やりたいことは2回観て何となく分かった。しかし、矢継ぎ早に場面を切り替えられ、束の間の静の場面で大量に台詞で説明を受ける。どういう場面で何を見せたいのかという思惑をある程度予想して理解できていないと矢継ぎ早のシーンは全く頭に入って来ず、長台詞の退屈な説教シーンとしか印象に残らならくなる。庵野秀明は親切に説明しないところが特徴だと昔書いた気がするが、それが裏目に出ている。もしもその演出を本家の仮面ライダーのケレン味だとか醍醐味だとか考えてそれを意図していたとしても、ここではうまくいっていない。

『リトル・マーメイド』(2023)

リメイクはそれぞれ原作と同じ部分、変わった部分があり、何故変えたのか・何故変えなかったのかという全ての部分に意図を感じることになる。それで、どうして変えたのか意図が分からない部分がある。

人種ミスキャスティング

アリエルはアニメ版を見るに白人だった。そして何故、大航海時代に黒人と白人が共存しているのか。何故、トリトンの娘たちの肌の色が全員違うのか(悪意的に見ると妾が多いという事か?)。そもそも人種問題はアメリカの内政問題であり、アメリカの会社であるディズニーがその政治的問題をクリアしていく事に異論はないが、それがこれまでのコンテンツと同じように世界的に受け入れられるものになるかという話は別である。

台詞の改変

「お父さんに殺される」が「叱られる」になっていた気がする。それ以外にもエンドロールで挿入歌の新作詞がクレジットされていたので、歌詞も所々違ったらしい。おそらく、過激な言い回しや問題のある単語を言い換えて、受け入れやすい、何も心に引っかからないような台詞回しに変えたのだろう。

  • 鳥の声が女性になっていた
  • アースラとトリトンの血縁関係
  • 海の神が地上を侵略しようとしている・人魚は船夫を惑わしてくるなどの新出の噂話
  • キスをする事を忘れてしまうアースラの呪い
  • 王子が養子であり黒人の女王が出てくる
  • 新しい歌(鳥と蟹の歌)が何言ってんのか聞こえない

などなどあった気がする。アリエル役の黒人は可愛いらしいと思う。が、演技は良いと思った事はない。そして最後までアリエルとしては見ることができなかった。しかし女性が露出の多い格好をして泳ぎ回っているのを見るとそういえば人魚って結構センシティブな見た目だなとか思った。蟹の声にずっと違和感があり原作のアンダーザシーが良いなとか見ながら思っていた。

『君たちはどう生きるか』(2023)

宮崎駿の新作。映画のスタンスとしては、黒澤明の『夢』に近い。要するに不親切で、映画としてまとまりがないということになる。しかしオムニバスだった『夢』よりかは、映画としての最低限のストーリーがあったのでそれほど苦痛ではなかった。

風立ちぬ』はあまり好きではなかった。『風立ちぬ』は暗い。子供向きではない。そういう悪い意味で老成してしまった基本スタンスを、『君たちはどう生きるか』は継承している。「冒険活劇ファンタジー」だと鈴木プロデューサーは言っていたので、そうきたら『千と千尋と神隠し』や『もののけ姫』とか『天空の城ラピュタ』とか、そんな宮崎駿の過去の大作をみんな想像するに決まっている。だが、『君たちはどう生きるか』は、『風立ちぬ』風の諦観が入った暗いファンタジーで、少なくともこれまでの素直なジブリ作品とは一線を画す。

今回宣伝が全く取られなかった。予告も公開日までに公開されなかった。事前情報は題名とポスターと、「冒険活劇ファンタジー」という言質だけである。私は公開されるまで3D CGなのかしらんとも思っていた。だが、中身はこれまで通りの宮崎駿の映画だった。そして、3DCG=アニメとなりつつある潮流に対して、手書きの芸術的な感性を極限まで磨き上げた反証の画面がこれでもかと連続する。例えば作中の継母の、いわゆる呉服を着た夫人の所作の描写は恐ろしい血眼の執念のようなものさえ感じる。すべての画面のものは動き移ろい、3DCGでは描ききれない生身の人間のような生物感がそこかしこに溢れていた。そう思えば、宮崎駿はそういう手書きの妙義を卓越した構成力で使用する作家だった。手書きアニメは、3DCGという真逆の表現法が確立した今、あまりにもルーズすぎるのである。それは機械のモデリングと人が目で見てシーンごとに描き上げるその差にある。いくら設定画に近づけて描こうとも、人間が線を引くのだから絶対に揺らぎはあるのである。それはプロットの進行によって登場人物の横顔が一層凛々しく見えたり、子供に見えたりするような、手書き故の揺らぎであり、それが心地よいということを私はこの映画で再確認したのだった。そしてその揺らぎがよく現れているのが過去作なら『ハウルの動く城』だとか(主人公は自分のその時々の感情によって若返ったり老け込んだりする。)、『もののけ姫』のシシガミの形態変化とか、考えだすとたくさんある。手書きゆえにそこから線がブワッと膨らんでいくようなダイナミックさとしてのアニメーションがあり、それがしかもプロット進行と合致ししているという心地よさが常にあったのである。アメリカの3DCGばかりを見ていた最近の私にとって、まぁ確かに『スパイダーバース』も革新的ではあるんだけれども、それらからは得られないものを見ることができた。

ジブリだけどジブリでない気持ち悪さ

ぱっと見はジブリ映画なのに、そうでないような気持ち悪さ・具合の悪さというのは既視感があった。『メアリと魔女の花』である。絵柄や動きはすごいジブリっぽいのに、どこか抜けているような推敲し切れていないような、高品質な中国製ジブリみたいな居心地の悪さが『メアリと魔女の花』にはあった。そしてそれと似たようなものを『君たちはどう生きるか』からもひしひしと感じた。

まず、展開が遅い。特に異世界に迷い込むまでの新天地での生活描写が、あまりにも遅い。だがしかし、画面はすごく魅力的でカット割や動き方などの繊細さはどう見ても最高峰で、ジブリのアニメーションだ!——となるのだが、展開が遅く間延びした登場人物の動作を延々と見続けるような場面が多かった。『千と千尋と神隠し』で異世界に迷い込むまでに30分くらい掛かっているようなものである。

不親切である。説得力を物語の中で持たせようとする努力を放棄している。義母と息子の確執という根本は通底していたが、どうして鳥ばっかりなのだとか、どうして青鷺は喋れるのかとか、一緒に迷い込んだお婆さんはどこに行っていたのかとか、疑問を取り出すと本当にキリがない。八百万の神々が疲れを癒しにくる湯屋ならいろんな形をした神が居るのだと納得できるし、動物が喋るのも太古の昔から存在した神々の森であるからだと言ってくれれば理解できるのだ。そういう舞台の説明が全くと言っていいほどないから、突拍子の無いように思えるし、不親切に思える。だけれどもどうやら手抜きのために仕方なくやっている様にも見えなかったので、意図したものなのだな、と考え込んでしまうことになる。

主人公が怖い。主人公は子供だが全く老成して何にも驚かない気持ちの悪い怜悧さがあり、『風立ちぬ』の主人公とそっくりである。あっちより声が浮いていない分まだいいが、しかし子供っぽくないので可愛げがない。新しい継母が嫌・新しい継母を持ってきた父親が嫌・周りの環境全部が気に食わないというそういう意思は感じるが、それだけである。悪意がどうとか言っていたが、よく分からない。だから感情移入できない。感情移入できない主人公が異世界に迷い込んでも何の感慨も湧かない。映画の最初から最後までずっと観客からしたら異世界の物語になってしまっている。『千と千尋の神隠し』はよくできている。ちゃんと現実世界から物語に引導されて異世界に向かう。

けどまあ『すずめの戸締り』よりかは異世界への導入はよくできていたと思う。下女や継母が気に入らないから、おーいと呼ばれて探されていると俄然出て行きたくなくなる。

要するに、「冒険活劇ファンタジー」をするには主人公が暗すぎる。アシタカも他の主人公に比べれば暗いが、今一度観てみると表情はちゃんと観客が共感できるくらいには豊富である。今作の主人公は血がドバドバ出てきても泰然としていて全く人間味がない。

『ゴジラ -1』(2023)

ゴミみたいな演出

演出が駄目。主人公の男が情緒不安定で大根役者で下手くそ。と思ったらエンドロールでこれが神木隆之介なのだと知った。『君の名は』くらいしか彼の出演作は知らないが、こんなに下手くそだったっけ、と思った。実写とアフレコの技量は一致しないということか。それとも、この煩くてヒステリックな演技を良いと思っている制作側の問題なのだろうか。だって、あまりにも下手くそすぎて、心の中でもうこれ以上ヒステリックな演技をするな、これ以上叫ぶな叫ぶなとヒヤヒヤしながら見てました。そして案の定主人公の男があんぎゃーと叫んだり、ガタガタ震え出えながら自分の感情の説明をし出すと私は見るのが本当に嫌で苦痛になるので、その間白目を向いてやり過ごしていました。何度も。

復員兵を主人公に持って来たのは面白いと思ったが、復員兵であるということだけで、主人公の感情の説明や説得を制作側が全部放棄してしまった感じがある。簡単に言うと演出が浅いということである。あまりにも安直すぎるので、侮辱にも思える。もっとやりようはあったはずなのに、残念だ。主人公の人間的な魅力が一切描かれていない。主人公はPTSDで感情的に当たり散らしたり双極性のように情緒が乱高下していて、周囲の人間はよくこんなのと付き合っていられるなと思った。一緒に暮らしている女が自立をしたいからと言って働きはじめた時、私はそりゃ女もこんな男からは逃げ出していくよなと思ったのだが、どうやらそういう意図のシーンではなく、彼女が働きはじめたのはゴジラに殺されるための外出の動機づけだった。

安っぽいストーリー

死んだ(と思っていた)人が蘇るなんていう滅茶苦茶浅はかなものを、何の恥ずかしげもなくラストに持ってくるあたり、制作側は本当にこれで感動的になると、本気で信じているのだろう。バカバカしい(首筋の意味深な痣も安直でチープで浅はか。何番煎じですか)。と、思っていたら、映画が終わって左後ろの席から一人すすり泣いているのが聞こえて来た。信じられない。秋にも花粉は結構飛んでいるらしいので、そういうことにしておこう。

女の描き方も適当。実家の近所の小母さんは、最初に死なずに帰って来た主人公をなじる、これはいいと思う、しかし演技が下手くそすぎる。あんな漫画の悪役のアフレコみたいに喋る小母さんがどこにいるだろうか。大仰すぎて反吐が出る。それ以降急に馴れ馴れしくなるのも見てられない。人の描き方が適当すぎる。一緒に住むことになる女も最初は主人公にずっと屁理屈を言っているような皮肉っぽいキャラだったのに、途中から昭和映画の置物みたいなしおらしい妻に突然なる。意味がわからない。近所の小母さんもこの女も、主人公の堅実な人柄に感化されて丸くなった、ならまあ道理は通るが、前述の通り主人公の男は情緒不安定で急に叫び出すPTSDの復員兵であり、しかもそれだけなので、感化されるような人間的な魅力や関係性もなく、女たちの人当たりや感情の変化に説得力がまるでない。

喧嘩別れした整備兵を連れてくる場面も非常に見てられなかった。「彼じゃなきゃ駄目なんだ!!」と主人公の男は煩く叫ぶのだけれども、主人公のその昂った感情意外に何故彼じゃなきゃ駄目なのかを説明できるものがないのである。隣の席の年配の爺がそのシーンの時、小声で「何故?」と言っていたのが聞こえた。同感である。その整備兵が戦闘機の整備に関して腕が立つだとか、そういう他の理由付けが無いから、主人公がヒステリックにこれが良いあれが良いと喚き散らしてストーリーを進行させるしかないのである。激昂したその整備兵と主人公の男がぎゃあぎゃあ喧嘩する場面も可笑しくてたまらなかった。二人ともわーっと叫んで子供のように激しくジタバタをして、それでカッコつけた積りになっているのである。ちゃんちゃら可笑しくて私は白目をしている最中に舌も出してしまった。

良かったところ

さまざまな場面で、わざわざ説明する必要のないことを、いちいち台詞で説明しようとするし、全員大根役者だし、特に主人公に全く感情移入できないし、見ていて苦痛でした。演出が、くどくて大仰。私は邦画を見るたびに雨の中泥だらけで泣き叫ぶのをやめてほしいと言っている。何度目だろうか。

良かったところを挙げるなら、CGは良かった。CGが駄目だなぁと思うところはあまりなかった。軍艦の高雄や震電を出したのはまあ分かりやすくて良かった。ゴジラの造形はまあ酷くはないが、『シン・ゴジラ』のような面白さはない。実直なゴジラ。以上。

総評

ゴジラが熱線をはいた後、原爆のようなキノコ雲が上がり、黒い雨が降って来た。その後、その爆心地はどうなったのか?きっと原爆のような恐ろしい被害が出たはずだ。主人公が雨の中馬鹿みたいにギャーギャー叫んでいるよりももっと写すべき所があったのではないか。放射能、同心円の罪の意識、被曝者だとか。ゴジラがやって来ても、画面の切り替わりでゴジラは唐突に帰って行ってしまうので、主人公の女が死んだ以外何の被害も感じられない。

いわゆる「邦画」という媒体で「ゴジラ」を撮りましたという、ただそれだけの映画。私の嫌いな演出が全部盛りで相当楽しめました。なんと言うか、急に怒り出したり叫び出したり泣き出したり大仰な演技をするのが良いと思っているんでしょうか。映画全体でそのような演出が見られたからこれは監督の好みなんでしょうか。そういえば、『Dr.コトー診療所』もそんな映画だったけど、私はここまで怒っていませんでしたね。多分、ただの邦画なら「また叫んでるよ笑」って酒の肴にもなるんでしょうけど、一応ゴジラだから期待してた分、怒っていると言うことなんでしょう。悪口や愚痴をぐちぐち言うのは嫌いなので、黙ってまた暫くぶりに『シン・ゴジラ』でも見ておきます。ありがとうございました。

追伸

この山﨑貴監督って、『ALWAYS 続・三丁目の夕陽』の監督らしい。私は小学生で映画館でこれを見た。この映画の冒頭、ゴジラが出てくるシーンがある。当時の私はゴジラなんて毛ほども興味がなく見過ごしていたが、それにしても映画は面白かった記憶がある。しかしこの映画はつまらない。ゴジラのCGが良くできているのが更に面白くない。糞とカレーを同時に食べさせられているような感覚だ。

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