雑記(13号2022年夏)

目次

  1. 『それいけ!アンパンマンきらきら星のなみだ』(1989)
  2. 『シン・ウルトラマン』(2022)
  3. 『職場のエチケット』(1985)三省堂
  4. 『レオン 完全版』(1994)
  5. 凶行
  6. 永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』(1996)

「それいけ!アンパンマンきらきら星のなみだ」(1989)

アンパンマンは特別好きなわけでもなかったが、昔家にこの映画のビデオテープがあったのでそれを繰り返し見ていた。アンパンマンの録画はこれだけで、あと数本のレンタル落ちのディズニーなどのビデオテープと共にローテーションで何度も何度も見ていたのだった(ブレイブ・リトル・トースターだとか101匹わんちゃん2だとか、なんだかマイナーなものが多かった)。古代の植物が生えている恐れ沼とどろんこ魔王が恐ろしいので子供ながら印象に残っていた。氷の女王や砂男などさまざまなな場所を巡って敵を倒していくストーリーは面白く魅力的だった。改めて見てみたが、やはり面白かった。そして大事なのは、子供の頃見ていた印象と全く同じ印象を今でも与えてくれたということである。つまり、幼い私でも完全に理解できていた作りであるということである。ジブリ映画などは子供の頃に何度も見ていたが大人になって見るたびに、「ここはこうなっていたのか」だとか「そういう意味だったのか」とか、幼かった当時の私の記憶を補完をしていく作業が毎回起こる。だが、この映画はそういうのはなかった。優劣ではなく、子供が完全に理解できるというのは、すごいことだと思う。

「シン・ウルトラマン」(2022)

どうやら日本の特撮関係もマーベルみたいにユニバースとして売り出していくらしい。「シン・ゴジラ」のヒットのおかげだ。その二作目がこの「シン・ウルトラマン」らしい。観客は間違いなく「シン・ゴジラ」を求めてやってくる。「シン・ゴジラ」を求めて見に行くとおそらく失望するだろうな、と思いながら鑑賞した。一回見てみて、あまり整理がつかなかったので次の日にもう一度見た。

内容はシミュレーションとしてのストイックさの前作の作風は控えめに残しつつ、特撮というエンタメの面白さを追求したものだった。なので、その「シン・ゴジラ」の残り香を嗅いで、それの劣化と見るのか、ウルトラマンをいい塩梅でリブートしたと評価するのか人によってあると思うが、私はこんなもんだろうと思った。不満を言うなら、ゼットンは元の怪獣として登場させて欲しかった。怪獣とウルトラマンのプロレスをもっと見たかったのである。そうだ、思い出した。私は「シン・ゴジラ」を求めて見に行ったのではなく、怪獣プロレスを期待して見に行ったのである。この映画にもあるにはあったが、途中から外星人からの侵略に如何に対処するかという視点に移ってしまって、中盤以降は失速したと感じた。ウルトラマンがメフィラス星人から物品を強奪して彼が憤慨して、予告編で使われたパーカッションの曲が流れ始めるのが本作の最高潮だった。私は「シン・ゴジラ」の着ぐるみとリアリティの合いの子のようなグラフィックスがとても好きで感動したのだった。そういう絵が今回も見れると思って期待していたのだ。だからガボラが地中を掘り進めながら移動しているシーンはとても興奮した。

「セクハラ」について

女性隊員のスカートの中身が全世界に公開されたり体臭を執拗に嗅がれたりするシーンに批判が集まっているらしい。私はまあ、批判されて当然だと思った。だって、それまで執念深くエヴァンゲリオンで女体を散々見せびらかしてきた庵野が、「シン・ゴジラ」では女体や色恋すらも切り詰めて完成させたから、「彼はやろうと思えばこういうのだってできるのだ」と思った人が多かったに違いない。私もそうだった。だから、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」でまた女の体を舐めるようなアングルで執拗に見せてきたときは、あぁ、そういえばこいつはそういうやつだったな、と呆れたような、がっかりしたような……。それがいいのか悪いのかは私はもうすでに語っているので、つまるところ、「シン・ゴジラ」が偉大すぎたのだ。青年漫画チックな女体の消費と色恋とを滅却したその作風が、また見れると思った人が大勢居たに違いない。私もそうだった。だから、当該シーンを見たとき、あーあ、やっちゃったと思った。それで、ゴジラをリブートする時には必要なくて、ウルトラマンをリブートする際には必要になったこの気色悪い性的冗談は、原作のウルトラマンにもあったのだろうか。こんな芝居をこなしている女優も、その演技は宴会で性的冗談を言われて無理やり高いテンションで乗り切っているような、痛々しさがあった。私は全く必要のない表現だと思ったが、2回目の上映の時は周りは結構笑っていた。まあ気にしない人は気にしないんだろう。ウルトラマンをリアルタイムで見ていたという人が、ブログで「長澤まさみのシーンは笑えましたw」とか書いていたのを見たので、要するにそういう昔の人むけのものなんでしょう。この映画は特撮ファンの同窓会なんです。

三回目の鑑賞の際にようやくパンフレットじゃない方の「デザインワークス」を買った。内容は、「ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ」の内容を薄くしたシンウルトラマン版だった。ここに庵野秀明のインタビューも載っている。庵野秀明は、ウルトラマンの男を女が助けに来るシーンや体臭を嗅ぐくだりなどで恋愛要素をもっと押し出して行く想定だったらしいが、上ってきた絵がまったくそんな感じじゃなかったので残念です、と、言っていた。庵野秀明は、確か予告のところだと「企画・脚本」としてクレジットされていたが、エンドロールでは「総監修」となっていた。庵野秀明はどこまで監修していたのか。このインタビューでも実際に撮影現場に行った回数は数回だと話していたから、脚本を書いて、自分抜きで撮影されて、それで後で編集する時になって「残念だ」となってしまったのだろう。うーん、やっぱり、最初から最後まで全部庵野秀明はいた方が良かったんじゃないか。つまり、「シン・シリーズ」ちょっとせかせかしすぎじゃないか、と言う話だった。もう少し時間をあげてやればいいのに。まあ、エヴァを作っていた頃とは規模がだいぶ違うから、融通が効かないのは本人も重々承知しているのだと思う。

表現の細かさ

一番最初の銀色のウルトラマンは初期型のマスクを摸していて、口元に皺がシワが寄っていた。あとゾーフィに名前が変わっていたりだとか、私もにわかだからいろいろ見逃しているんだろう。そう言った子細は置いておいて、全体として楽しめるものになっていただろうか。「シン・ゴジラ」よりは子供受けがありそうだ。あと、飛行する時は人形だから微動だにしないのを「特撮的な面白さ」として残しておいたのは思い切るなあと感じた。飛行人形のポーズのままグルグル回転するのはそういうのを知らない人からしたら爆笑ものである。それとやっぱりCGも「CGっぽくて面白い」からって、破綻も残しておいたと「シン・ゴジラ」の記事か何かで言っていたので、今回もそういう絵面がいくつかあったと思った。そういうのが、CGのクオリティとして語っていいのか、少し困惑する。劇中のウルトラマンのCGもモーションキャプチャっぽい動きとボーンで動かしたような動きと混在していたようなので、そういうのももっとしっかりと見てみたい。


「職場のエチケット」(1985)三省堂

家にあった小辞典。内容が時代錯誤というか、まあ昔の雰囲気をよく伝えていて、面白かったので引用します。会社のいろはが分からない新入社員向けのビジネス書。興味深いのは「新入社員」と「女性社員」とで章がわかれているところです。今だったら考えられませんよね。

引用開始……。

また女性社員には、特に、服装や身だしなみを、いつも整えていることが大切です。事務服がある場合には、それをいつも清潔にきちんと着ること、髪や爪の手入れ、お化粧は派手すぎないか、などの点に注意します。

「新入社員・チームワークを保つ」

  • チームメンバー同士、お互いに仕事の分担領域をわきまえる。
  • お互いの仕事の、進行状況を報告しあう。
  • お互いの作業のスケジュールを把握しておく。
  • それぞれ勝手なやり方にならないように、作業の効率化をはかる。

「女性社員・チームワークを保つ」

  • 差別しない
  • 親しみを込めて接する
  • 派閥に属さない

服装は、女性の知性や教養を表現する手段といわれます。生地や色彩の組み合わせ、服の仕立てなどに十分な知識があれば、合理的なファッションを楽しむことができます。ふだんからセンスをみがき、信用のあるお店から、計画的な買い物をすることです。また、睡眠不足は、女性の素肌にとって大敵です。健康な美しさをいつも失わないよう、規則的な生活を心がけましょう。

「女性社員・上司に対するエチケット」

上司が女子社員に望むこと

  • 安心して仕事を頼める人、つまり、期日までに、きちんと与えられた仕事をやりとげる。
  • 正確な報告をする。
  • 自分勝手な判断をしない。
  • いつも改善の努力をする。
  • しかられても、めそめそしないで自分の悪い点を改める。
  • 周囲と協調して仕事をする。
  • 身だしなみがよい。
  • 明朗で、はきはきしている。

日常のエチケット

  • 朝上司が出社してきたら、「おはようございます」とあいさつする。
  • 廊下で上司と出会った時は、すぐ左側によけ、相手が近づいた時に、かるく会釈する。
  • エレベーターでは、上司を先にのせる。降りる時は、自分が先に降りてドアを押さえる。
  • 上司について歩く時は、左後ろに従って歩く。
  • 馴れ馴れしい態度をとらない。例えば、「課長、今日のネクタイ、かっこいいですね」など、親しみをこめたつもりでも、無作法ななれなれしさが不快感を与える。
  • お世辞を言ったり、おだてたりしない。
  • 上司から食事などの誘いを受けたら控え目に応じ、甘えすぎないようにする。またその場合、心からお礼を言う。

男子社員に対するエチケット

職場の中では、男子社員も女子社員も、それぞれ与えられた分担を守って、協調して仕事を進めていかなければなりません。男女同権が建て前ですが、男性と女性のそれぞれの特質や、以前からの習慣で、男性に向いた仕事と、女性に向いた仕事があります。

例えば、同じ新入社員でも、ロッカーを移動したり、帳簿を箱に詰めて高い所へしまうような仕事は、男性が引き受けることが多いでしょう。郵便を出しに行くとか、お客様に出すお茶、ちょっとした買い物などは、女性がふさわしいでしょう。

職場は、人間関係中心の共同作業ですから、女性のほうから進んで雑用をかたづけるくらいの気持ちがほしいものです。男性社員と同等の仕事をこなしている女子社員が、ちょっと手のすいた時など、進んで手伝ってくれたり、雑用を気軽に引き受けてくれたりするのは、男子社員にとって、好感がもてます。

男性社員とのつきあいは、すくなくとも、職場では一線を引いて接するべきです。毎日机を並べて、親しく同じ仕事をしている相手に、なれなれしい態度を態度をとったりしないようにします。特定の男子社員だけの仕事を手伝ったりすることなく、男子社員全員に、平等な接し方をすることです。

女性は、感情的で、不平等な扱いに敏感だといいわれます。「あの人はあんないい仕事で、私は雑用ばかり」など、不服を言わないようにします。仕事のよしあしや担当は、上司が判断することであり、感情的になると、相手ばかりか上司にも迷惑がかかります。仕事について、不満を露骨に表したり、言ったりしないようにすることも必要です。

お茶の出し方

来客にお茶を出すのは、一般的に、女子社員の役割になっています。真心をこめておいしいお茶を入れ、美しいマナーで、客にお茶を出すことを、ふだんから心がけておきましょう。

引用終わり……。

こんな具合です。なんと前時代的だ、という印象というか、そういうこともあっけらかんに書いちゃうんだ、という感じがした。だって、これ今でも結構通用するんじゃないんでしょうか。表に出して書いていないだけで、会社にいる男はみんな心の中でこういう具合に思っているんじゃないでしょうか。約40年前の本ですが今でも実用的です。


「レオン 完全版」(1994)

何か面白い映画ないかなー、と思ってネットフリックスを調べていたらこれが出てきた。チョーカーをつけた少女が殺し屋と一緒に写っている映画。見覚えがある。これは、ちょっと前に話題になっていた映画だ。どういう話題かというと、

ナタリー・ポートマン、優等生イメージは自分を守るためだった「尊敬されれば性的対象として見られない」

今週、俳優のダックス・シェパードのポッドキャスト「Armchair Expert」に出演したナタリー・ポートマン。ハリウッドが自分のセクシュアリティに及ぼした影響について語っている。ナタリーが映画『レオン』で映画界にデビューしたのは12歳のとき。少女と中年の殺し屋の親密な関係を描いたこの作品と、ピアニストの男性が13歳の少女に惹かれていく様子を描いた『ビューティフル・ガールズ』に出演したことで性的な視線が向けられるようになったと話す。当時を振り返り「子どもなのに性的対象として見られたことで、私自身の性的な関心は奪われたと思う。性的な存在になることが怖かったから」。

ナタリー・ポートマン、優等生イメージは自分を守るためだった「尊敬されれば性的対象として見られない」

これである。この映画、完全版と実際に上映されたバージョンの二種類があって、完全版の方が過激らしい。何が具体的に過激なのかというと、12歳の少女に性体験のことをあけすけと語らせているのだ。その面での顰蹙はもともとあったから当時も該当シーンは上映の際にはカットされたのだと思うが。

内容は殺し屋の男と少女が同棲する話。普通に映画として面白く楽しめた。ただ、やはりこの12歳の少女が映画の中で子供として描かれているかというと、そうではなくて魅力的なヒロインとして描かれている。子役に性的な台詞を喋らせたとかそういう問題の前に、「これが主人公のワイルドな男です、それで、これがこの映画のトロフィーの女です」と言った具合な映画の構図・構成・アングルがすでにもう小児性愛な感じがしてモヤっとする。幼い命を守り抜くための庇護者の大人と保護される子供の構図ではなく、ラブロマンスのための男女として描かれるのだ。何だか煮え切らないんだけれども、だけれども、やっぱりクライマックスであんな危機的状況の中でジャン・レノに抱き抱えられて「お前を愛している」だなんて言われたらドキッとしてしまう。いい意味で。だから簡単に畢竟一言で言って仕舞えば「禁断の愛」なんだけれども……。「禁断の愛」、燃えあがりますよね。いいですよね。ただ、それを実際に12歳の子供を使って表現してしまっているところがこの映画の、現代から見た1番の欠点なのだろう。男にだけ都合の良い理想的な12歳の少女の役を実際に12歳の少女にやらせているという、グロテスクな行為は批判されて当然である。

キャンセル・カルチャーという言葉があるが、少なくとも私はそうしたものに出くわしても、当時はこういうものだったんだな、と一歩下がって見届けたい。まあそれも、私がどんな搾取の構図の中でも当事者じゃないし有利にも不利にもならないから、という傲慢さからきているんだけれども。だから私には歴史的経過ではなくて時代の隔てられた過去のものとしてしか見れないのだろう。その距離をどうにか詰めたくて、いろいろ勉強している。

調べていたら、当時は小児性愛(少女愛)がもてはやされていたらしくて、当時の権威的な作家(ガブリエル・マツネフ)とこの「レオン」の思想的なつながりに言及している人がいた。うーん、少女愛のじじいって、バルトュスとか、ゲーテとかですかね(そういえば最近だと、「ベニスに死す」の美少年役の俳優が当時のヴィスコンティ監督の性消費を訴えていた)。こういう人、特にバルトュスとかがどういう扱いをすればいいか、ってのはみんな誰しも考えあぐねているんじゃないんですか。しかし最終的には現代人の心境が一番に優先されると思う。だから、小児性愛者の映画や絵だから焚書発禁にします、と言われても仕方がないかな、と思う。


凶行

安倍晋三が殺された。演説中に銃撃を受けて死んだ。一日前の私だったら、この文面を見て何も感じなかっただろう。なぜならこういう文面はネット上にいくらでもあったからである。殺害予告や悪口やそういうものは数えきれないほどあり、私もそういうものは全部構っていなかった。

政治の話という禁忌に気づいたのはいつ頃からだったか。ポスターがそこら中にあり、選挙前なら街宣車ばりの騒音で大騒ぎしているやつら、そういうやつらのことをあまり公に話してはいけないという雰囲気はいつからか感じ取っていた。あの政治家はいいとか悪いとか、そういうことは人前でおおっぴらに言ってはいけない。だが私の家族は私に政治家の愚痴を散々言っていた。それは外と内の意識的な使い分けで、オフレコでお願いしますということなのだろう。そういえば祖父は小沢一郎を信頼していると言っていたし父親は安倍晋三は日本を正しい場所へ導いてくれると私に語った。

公共の場に歴然と存在しているのに、話してはならない禁忌の存在というのは、私の世界にもう一つあった。それは、皇室である。ボーイスカウトのジャンボリー(大規模なキャンプの祭典)の時、決まって開会式には皇太子(今の令和の天皇)が呼ばれていた。「あいつは晴れ男だよ」と、前回のジャンボリーに参加した指導者が私に言った。「皇太子が朝霧高原の開会式に登壇した瞬間、雨が止んだんだ」

皇室の禁忌は政治家のそれよりも強固である。批判は絶対に許されないしその存在に言及するだけでも神経を使う。英国の007には女王が出てくるが、日本の創作物で政治的な必然性がその物語にない限り皇室が出てくることなどもしかしたら一つもないのかもしれない。意図的に語られていない。皇室も政治家も同じ理由で禁忌なのである。それは、めんどくさいということである。めんどくさいというのは、波風を立てたくないということである。つまり、極めて政治的な存在だから、そこから生じる対立を危惧しているのである。日本人は他の世界から見たら閉鎖的だから波風を敢えて立てるような行為は、それだけで集団から疎外される要因たり得ると皆が思っているのである。

私はジャンボリーの時、副班長だった。うるさい小学生や中学生を黙らせる必要がどうしてもあった。「皇太子はきっとヨダレかけをつけてお上品にナイフとフォークで茶碗蒸しを食うのだろう」だとか、「便所でおまるをまだ使ってるに違いない」だとか、子供たちは何も知らないから大声で皇太子を罵る言葉を発して私を慌てさせた。毎日発行されるジャンボリーの新聞が午後になると私のキャンプサイトにも配られる。私はその新聞を隅から隅まで目を通して、皇太子の話が一切ないことを認めた上で子供たちに渡した。ある日、皇太子が新聞に載っていた。私はいつものように紙面を見たがる子供たちに、ひとつも落書きなどするなよと約束させて渡した。子供たちは案の定皇太子に落書きをしようとしていたので、私は彼らを追いかけ回した。

ジャンボリーのある日、私たちの班はとてつもなく長くて直線な山道をひたすら歩いていた。舗装された道路がずっと奥まで何度も波打ちながら続いていて、そして大勢のスカウト達もそれに沿って行軍していた。大行列が突然止まった。皇太子が通るから、立ち止まりなさいということだった。何で止まる必要があるのか、立ち止まってそれでその間何をすればよいのか、てんで見当がつかなかった。たまらず子供たちは皇太子の悪口を言い始めた。それを聞いた私のリーダーが、慌てて黙らせろと私に命令した。お偉いさんに聞かれたらただじゃ済まないぞ、と私に釘を刺した。この大人も皇太子の禁忌は上が怒るから禁忌なのだ、としか知らないのだ、とがっかりした。カメラを携え待っていたが、いざ目の前を通ると皇太子は手を振っていたから振り返さなければ失礼なようで、どうにも一方的に人に向かって写真機を向けたままなのは忍びないと思い、写真は撮れなかった。そういえば開会式の時も皇太子を撮ろうと思ったが不敬だと思い撮れなかった。だが確かに皇太子が登壇すると霧が晴れたような気がした。

禁忌の政治の話は大学に行くと随分開放的になった。研究室の廊下には「アベ政治を許さない」というビラが貼ってあったし、教授たちもさんざん授業内で政治家を揶揄して批判した。大学の友人たちとも、最初はさぐりさぐり政治の話をちょっとして、それで思想が同じだとお互いに確認できると随分仲良く政治談義ができた(当時は要するに安倍晋三が嫌いか好きかという話であった)。集団的自衛権の争議では、教授たちは表立って連名で表明して批判を行っていた。

一人旅で露天風呂に入っていた時に、自然に会話を始めた老人も、最初はさぐりさぐり私の政治的な思想を確かめて、自分と思想が近しいと感じると随分信頼していろいろ話してくれた。勤めていた会社の社長も、靖国神社に初詣してきましたと言うと、お前靖国神社がどういうものか知っているのか、とたしなめられた。それは、少し控えめに私の思想信条を探っているようだった。

どの日本人も他人が自分と近しい政治思想を持っているかどうか、最初に恐る恐る静かに確かめにいくこの所作がたまらなくもどかしい。どうにかならないのか。まあ、ちょっとソワソワした空気が面白いから、たまにイベントとしてやるならアリだと思う。しかし時には、お前らの意見なんか知らない、俺はこう思うのだ、と街宣車ばりに周囲におもねることなく言ってみたいものだ。

そして安倍晋三が死んだ。「どんな感情を彼に持っていたとしても、暴力行為は許されるわけがない」という言説をよく見る。……「思想信条が異なっていても」「個人的な感情抜きにして」「いかなる背景を持とうとも」……などなどの枕詞が彼への冥福の祈りによくくっ付いているのを見ると、安倍晋三という政治家と、彼に対する評価による対立と分断は各人相当思い当たる節があるのだろう。生前のインタビューで、安倍晋三はそれまでの自民党は批判に対しても押し黙って論戦を持ちかけなかったが、私は黙らずに反論を始めたのだ、とかいう趣旨の発言をしていた。

どんなに許せない人でも、私の知らない遠い街で静かに暮らしていれば、私もその人もみんな幸せだろう。けれど、友達になるために人は出会うとしたら、それと同じくらいにそりの合わない人と疎遠になり、そういうのが累積していくとやがて、アイツが生きている限り私は幸せには生きてゆけないだとか、そういう殺意のるつぼまで持つようになるのは、世界のよくある話だと思う。人間生きていれば人間関係が生まれ、好きな人と嫌いな人が区別されるのは当然である。だから対立のない平和な世界などというのは夢物語であって、それはそういった諸問題を見ようとしていない。透明な存在として扱っているだけである。けれど、日本人はその対立のない夢物語な平和を所期してやまない。その「夢物語」はある時には「空気」とか呼ばれているものとほぼ同意義だろう。現在を直視せず、理想型を意地でも投射し続ける日本人、それがいいのか悪いのかというと私は悪いと思っているが、しかしそんな表だって批判できるくらいに私は自律できているかというと、ちょっと自信がない。


永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』

わたしが高校受験のために通っていた塾の講師がいて、わたしが哲学に興味があると言うとこの本を貸してくれた。そしてウィトゲンシュタインを知っているか?と言って彼のことを喋り始めた。そして少し待たされた後に大量のコピー用紙にウィトゲンシュタインのことを印刷したものを持ってきてそれで読んでみろと言った。コピー用紙のほうは全く読まずに捨ててしまったが、この本は何度かことあるごとに読んでいる。そして読み終わったらちゃんと返してほしいと言われたのにもう十年以上借りっぱなしである。これは中学生高校生向けの本であると謳っているが、実際当時中学生のわたしは、内容を全く理解することができていなかった。そして最近、多分3回目の通読をやってみたところ、ようやく理解ができるようになってきたと思う。デカルトとかカントとか、そう言う前提をある程度は読んでおかないと完璧に読むことはできないと思った。

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